なぜ病気を見ずその人を見るのか?:カラダナオル誕生秘話⑨
- Admin
- 6月6日
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過去に一度だけ、無料の体験会を開いたことがある。
来られたのは4人ほど。その中に、一組のご夫婦がいた。
奥様は、EGPA(好酸球性多発血管炎性肉芽腫症)という難病を患っていて、外出には車椅子が欠かせなかった。ご主人が付き添って来られていた。
私はいつも通り、施術をした。
すると、20分ほど経った頃。
ご主人が車椅子を折りたたみ、奥様は自分の足で歩いて帰っていかれた。
ただ、正直に書いておく。
なぜそうなったのか、私には今でも説明できない。
(その顛末は上記動画に収めてあるので、各自で判断してほしい。)
私が「治した」とも思っていない。
ただ、その日、そういうことが起きた。それだけだ。
——そのあと、無料の体験会をやめたのは、言うまでもない。
後日、気になってご様子を伺うと、「あれ以来、車椅子なしで買い物に行けています」とのことだった。
それはそれで、嬉しい。
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その日、一番自分に響いたのは、別の言葉だった。
ご主人が、病院でのことを話してくれた。少し怒気を含んだ声で。
「目の前に妻がいるのに、医者は見ようともしないんです。」
そのときの私は、「そんなものなのか」としか思わなかった。
病院に通う経験が、自分にはなかったからだ。
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だが今、私は毎月、母を定期検診に連れて行く。
そのたびに、あのご主人の言葉が、頭の中でこだまする。
「目の前にいるのに、見ようともしない。」
医師は「足のむくみはありませんか」と尋ねる。
けれど、母の足を見ることも、触れることも、ほとんどない。
手を伸ばせば届く距離に、母はいるのに。
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もちろん、医師を責めたいわけではない。
大学病院の勤務がどれほど過酷か、想像はつく。
午前だけで何十人もの患者を診るのだろう。
一人ひとりの背景にまで向き合う時間など、現実にはないのかもしれない。
だからこれは、個人の問題ではなく、システムの問題だと思っている。
ベルトコンベアのように診なければ回らない医療。
その最後の砦である大学病院が、地域の開業医や訪問医療ともっと手を組めたら——「人を診る医療」に、少しは近づけるのではないか。そう願っている。
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カラダナオルに来られる方の多くは、いわゆる「病院難民」だ。
どこへ行っても「異常はありません」と言われた人。
あるいは、「治療法はありません」と言われた人。
断っておくが、私は医学を否定するつもりはない。
救急も、外科も、現代医学がなければ救えなかった命は、数えきれない。母が世話になっている今、その恩恵は身に染みている。
ただ、一つだけ思う。
病気を見る前に、その人を見てほしい。
数値の向こうには、人生がある。
検査結果の向こうには、家族がいる。
診断名の向こうには、一人の人間がいる。
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私が施術で心がけているのも、そこだ。
病気を治そうとしているのではない。
目の前のその人が、少しでも楽に、少しでもその人らしく生きられるように。その手伝いをしているだけだ。
医学でも科学でも、まだ説明できないことは、たくさんある。
それでも私は、人が本来持っている力を信じている。たぶん、私たちが思っているよりも、ずっと大きい。
だからこれからも、病気ではなく、人を見る。
それが、カラダナオルの原点なのだと思う。
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※本記事は筆者の体験と考察を綴ったものです。特定の医療機関や医療従事者を批判する意図はなく、施術による効果を保証するものでもありません。病気の診断・治療については、必ず医療機関にご相談ください。



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