健康の定義は、人それぞれなのかもしれない
- Admin
- 5月17日
- 読了時間: 4分

人は誰でも、健康で暮らしたいと願っている。
だから多くの人が、日々かなり気を遣っている。
睡眠。
運動。
食事。
どれも大切だし、気を遣って悪いことはないと思う。
ただ、それでも体は悪くなる時は悪くなるし、死ぬ時は死ぬ。
最近、いろいろな出来事を通して、そのことを痛感している。
しかし、その逆もある。
お恥ずかしながら、うちの父親は、健康に気を遣うことなく80年以上生きてきた。
10代の頃から酒とタバコ。
しかも「少し嗜む」どころではない。
完全にヘビースモーカーであり、大酒飲みである。
私たちは京都・嵐山に住んでいたのだが、京都のドライバーは昔からなかなか荒いことで有名だった。
しかも当時は今ほど厳しくなかったので、父は毎日のように飲んで帰ってきては、そのまま車を運転して帰宅していた。
幸いにも無事故無違反のまま、60歳で免許を返納したが、今思えば、ある意味奇跡だったと思う。
母親に向かって、
「昨日、俺どうやって帰ってきた?」
と聞いていたことも、一度や二度ではない。
それでも何事も起こさなかったのだから、ある意味すごい。
そんな父親だが、2年前に大腸癌となり、緊急入院した。
大腸全摘。
その後、2ヶ月半ほど食事もできず、点滴だけの生活となった
。
文字通り、「骨と皮」だった。
その状態で大手術を受け、さらに術後には「腸漏れの疑い」があるということで、再度手術。
結果的には腸漏れはなかったらしいので、2回目はほぼ無駄な手術だった。
体力自慢だった父も、さすがに瀕死の状態だった。
ある日、一人で見舞いに行った時のことだ。
担当の看護師さんから、
「個室への移動の署名をお願いできますか?」
と言われた。
大部屋が空いていないため、移動が必要らしい。
私は、
「本人ではなく、息子の私が署名してもいいんですか?」
と聞いた。
すると看護師さんは、
「お父様はもう、指が……動かせないので。」
と、かなり気の毒そうな表情で答えた。
家族全員が、父の死を覚悟していた。
だから私も、さすがにまずいと思った。
家族が集まった時、私はいつものように父の頭に手を当てた。
すると驚いたことに、ものすごい生命力を感じた。
なんというか、
「生への圧倒的な肯定感」
のようなものだった。
死の気配が、まるでしない。
だから私は、妻にこっそり、
「ワンチャン、このまま復活するかも」
と囁いた。
そして実際、その後父は復活した。
大腸全摘後、通常ならリハビリ病院へ転院するケースだったらしい。
しかし父は、リハビリ転院の条件を満たさなかった。
なぜなら、2週間ほどで自力歩行できるようになってしまったからだ。
そのまま直接退院した。
我が父ながら、ゴキブリ並みの生命力である。
退院前に再度見舞いへ行った時には、前回はベッドで運ばれていた父が、普通にスタスタ歩いて待合室へ来た。
そして開口一番、
「いやー、まさかこの俺がガンになるとは!」
と言った。
全国、いや世界中の、健康に気を遣って生きている人に謝れと思った。
健康に気を遣っていても、ガンになる人はいる。
一方で、父は相変わらずタバコを吸い、酒を飲み続けている。
去年、家族でクラブラウンジ付きのホテルへ泊まった時も、父は夕方5時半から深夜0時まで、休むことなくウイスキーのロックを飲み続けていた。
もはや、「死んでも本望」という境地なのかもしれない。
もちろん、だから健康管理が不要だと言いたいわけではない。
睡眠も、食事も、運動も大事だ。
ただ、人間というものは、それだけでは説明できない。
生命力。
生への肯定感。
あるいは、
「俺は死なない」
という根拠のない思い込み。
そういうものが、時に常識を超えることがある。
父も83歳となり、体はガタガタだ。
運動もしない。
それでも毎日元気にタバコを吸い、酒を飲んでいる。
世の中の健康常識に真っ向から反抗しながら生きているような人間を見ると、
「健康の定義」
というものは、人それぞれなのかもしれないと思うのである。



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