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準備したものを、捨てる勇気

  • 執筆者の写真: Admin
    Admin
  • 7月24日
  • 読了時間: 5分


昨日は、月に一度の継続会だった。


継続会とは、全三回の基礎研修を終えた方が参加できる、月一回の研修会である。


全三回の研修を始めたのは、2020年12月だった。


その後、2021年8月から継続会を始めた。


気がつけば、もう五年近い月日が流れている。



昨日は、呼吸法を扱うつもりだった。


事前にYouTubeの動画を皆さんへ送り、当日はその呼吸法をどのように使うのかを説明する予定だった。


自分なりに準備もしていた。


ところが、研修会を始めてみると、それを行う必要がないことに気づいた。


参加者の皆さんが、私の想像以上に成長していたからだ。



その呼吸法は、身体の緊張をほどき、普段とは少し違う静かな意識状態へ入るためのものだった。


けれど、皆さんは呼吸法を使わなくても、自然にその状態へ入っていた。


変性意識へ入るスイッチが、以前よりも自然に働くようになっていた。


それなら、あえて予定していた呼吸法を行う必要はない。


私は、その場でやらないことに決めた。



参加者の一人から、


「先生、呼吸法はやらないのですか」


と聞かれた。


確かに、事前に動画まで送っている。


当然の質問だった。


「もちろん、やるつもりでした。ただ、皆さんが自然にその状態へ入ったので、今日は必要がないと判断しました」


そう答えた。


用意したものを使わなければ、準備した時間が無駄になったようにも感じる。


けれど、準備した内容を消化することが、研修会の目的ではない。


その場にいる人に必要なことを行う。


必要がなければ、やらない。


昨日は、その選択の方が自然だった。



逆の経験もある。


前回の継続会では、8月22日に予定している藤原直哉先生との対談に向けて、


「神とは何か」


というテーマを扱った。


神というものを、数式で表すことはできるのか。


その問いについて、かなり時間をかけて資料を作った。


何度も考え直し、かなり作り込んだ内容になった。



けれど、参加者の反応を見ていると、好評だったとは言い難かった。


理由は、今になればよくわかる。


少なくとも私にとって、神は説明だけで理解できるものではない。


数式を見て、そこに神を感じるわけでもない。


神と呼ばれるものがあるとすれば、それは体験を通して出会うものなのだと思う。


数式は、地図にはなるかもしれない。


けれど、地図は体験そのものではない。



参加者の一人から、


「それを数式にすることに、意味があるのですか」


と聞かれた。


もっともな質問だった。


正直に言えば、誰にとっても意味があるとは、私自身も思っていない。


けれど、私にとっては考えてみたい問いだった。


私にとって大きな意味を持つタンゴが、他の人にとっては何の意味も持たないこともある。


同じように、数式で考えることが必要な人もいれば、まったく必要のない人もいる。



意味があるのか。


意味がないのか。


その答えは、対象だけで決まるものではない。


誰が、どのような問いを持って、それに触れるのか。


その人との関係の中で、意味は変わる。


だから、


「それに意味はあるのか」


という問いだけでは、十分ではないのかもしれない。


「それは、誰にとって意味があるのか」


そこまで考える必要がある。



前回は、準備したものを最後まで伝えようとした。


昨日は、準備したものを途中で手放した。


その違いは、大きかった。


こちらには、教えたいことがある。


けれど、相手には、今知りたいことがある。


その二つは、必ずしも同じではない。



もちろん、準備が必要ないということではない。


準備をしているからこそ、その場で方針を変えることもできる。


大切なのは、準備したものに執着しないことなのだと思う。


使うために準備する。


けれど、必要がなければ捨てる。


言葉にすれば簡単だが、実際には少し勇気がいる。



私には、対話をしながら教える方が合っているのだと思う。


その場にいる人の考えを聞く。


疑問を受け取る。


必要であれば、予定していた内容を変える。


答えを与えるというより、一緒に考える。


研修会も、ワークショップも、講演も、そのような形で行いたい。



外国語やタンゴを学んできた経験も、今の教え方に影響しているのかもしれない。


自分の方法だけを押しつけてくる先生には、なかなかついていけなかった。


こちらの考えを聞いてくれる先生。


何がわからないのかを見てくれる先生。


その人に合う言葉を探してくれる先生。


そういう先生からは、長く学ぶことができた。



毎月参加するメンバーは、少しずつ変わってきた。


それでも現在、継続して参加してくださる方が十名ほどいる。


彼らがいることで、私の施術も、その背景にある考え方も、少しずつ更新されてきた。


昨日、呼吸法が必要なくなったことは、彼らが成長した証拠だった。


そして、その呼吸法をやらないと決められたことは、私が少し変わった証拠でもあった。


五年間、私は研修生に教えてきた。


けれど、彼らから教えられてきたことも、同じくらい多い。


準備したものを捨てる勇気も、その一つなのだと思う。

 
 
 

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