『進撃の巨人』を、妻と見終えた
- Admin
- 7月21日
- 読了時間: 4分

昨日、妻と二人で『進撃の巨人』を最後まで見終えた。
Netflixで少しずつ見続け、ようやく物語の終わりまでたどり着いた。
見終えたあと、しばらく考えてしまった。
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人を殺すことは悪だと言われる。
けれど、戦争になると、殺せば殺すほど、それは戦果と呼ばれる。
そして、人から称えられることさえある。
考えてみれば、不思議な話である。
当たり前のように受け入れているが、私たちは、かなり非常識な世界に生きているのかもしれない。
『進撃の巨人』は、その矛盾から目をそらさない作品だった。
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この作品が扱っているのは、単純な善と悪ではない。
正義と悪の戦いでもない。
自己犠牲を美しく描いただけの物語でもなければ、大量殺戮を戦果として肯定する話でもない。
それぞれの立場に、それぞれの歴史がある。
恐怖がある。
怒りがある。
守りたい人がいる。
自分たちが生き残るために、相手を滅ぼさなければならない。
相手もまた、同じことを考えている。
複雑な価値観と思惑が絡み合い、誰か一人を悪者にするだけでは終わらない物語になっていた。
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私はロシア文学が好きで、トルストイやドストエフスキーの作品をよく読んだ。
『戦争と平和』。
『罪と罰』。
そこに描かれているのは、事件そのものだけではない。
人はなぜ人を殺すのか。
正義とは何か。
罪は誰が決めるのか。
人間は、どこまで自分の行為を引き受けることができるのか。
文学が長い時間をかけて扱ってきた問いを、『進撃の巨人』はアニメーションという形で描いている。
そのことに、少し驚いた。
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途中には、物語というより、ほとんど前衛的な映像作品のように感じる回もあった。
時間が入り乱れる。
記憶と現実の境目が曖昧になる。
過去に起きたことが未来へ影響し、未来の出来事が過去の選択を変えていく。
簡単に理解できる話ではない。
けれど、わからないままでも、何かが残る。
それもまた、芸術の一つの形なのだと思う。
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もっと後味の悪い終わり方になると思っていた。
けれど、最後は何とか物語として着地した。
救われたと言ってよいのかはわからない。
完全に納得できる答えが示されたわけでもない。
それでも、長い物語はきちんと終わった。
そして振り返ってみると、最初から置かれていた無数の伏線が、後半で次々に回収されている。
あれほど複雑な物語を、最後まで崩さずに描ききった。
ストーリーテラーとして、圧巻だった。
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この作品を見て育った子どもたちは、どのような大人になるのだろう。
単純に、正義の側と悪の側を分けることはできない。
敵にも家族がいる。
自分の正義が、誰かにとっての恐怖になることもある。
そういう物語に幼い頃から触れることが、どのような感覚を育てるのだろう。
もちろん、一つの作品だけで人が変わるわけではない。
けれど、心のどこかに問いが残ることはある。
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間違いなく、表現は進化している。
かつて小説でなければ描けなかったような複雑なテーマが、漫画やアニメーションを通して伝えられるようになった。
日本で生まれたこの物語が、世界のさまざまな場所で見られている。
国も、言葉も、歴史も違う人たちは、どのように受け取るのだろう。
少し聞いてみたい気がする。
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今日、千葉から東京へ向かう車の中で、昨日見終えた『進撃の巨人』について、妻と話した。
最終回まで見ても、腑に落ちないことはたくさん残っていた。
その中で、妻が言った言葉が気になった。
「愛を深く感じる人ほど、復讐に走ることが多いのかもしれない」
確かに、そういうことはあるのかもしれない。
けれど、そうなると今度は、愛とは何かという問いが残る。
大切な人を守ることが愛なのか。
その人を奪った相手に復讐することも、愛から生まれるのか。
愛という言葉の中に、どこまでの行為が含まれるのか。
そこは、もう少し考える必要がありそうだった。
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『進撃の巨人』で繰り返し描かれていたのは、家族や友人を殺された人たちの心情だった。
家族を殺した人。
友人を奪った人。
その相手と手を組み、今度は世界の危機に立ち向かうことができるのか。
「あなたは、それでも一緒に戦えますか」
それは、この作品が何度も突きつけてきた問いの一つだった。
イエスと答えられるのか。
ノーと答えるのか。
簡単に答えられることではない。
同じ人であっても、置かれた状況や、その時の心によって答えは変わるだろう。
妻と私は、互いに思ったことを話した。
けれど、最後まで答えは出なかった。
答えの出ない感想を言い合いながら、車は東京へ向かっていた。



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